高桐院その2のイメージ

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 高桐院のみどころの一つがこの参道です。入口は瓦葺きの築地塀、大判の切り石が敷かれた参道を挟み込むように手入れの行き届いた赤松の列植が続きます。しかしこの先を直角に折れると景色が一変します。竹林を切り裂くように貫く自然石の延べ段の長さは50m、苔むす地面にラカンマキの生垣が参道に沿って真っ直ぐと続きます。「市中の山居」とは利休が理想とする茶室の佇まいですが、このアプローチは先程まで寺町にいた感覚を忘れさせ山寺に迷い込んだような錯覚を与えます。

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 玄関を上がり、庫裡を抜けると書院、意北軒になります。今の京都御所の西側に豊臣秀吉の邸宅兼政庁である聚楽第があったとされていますが、金箔を貼った瓦を使うという豪華絢爛さでありながらわずか8年で秀吉本人により取り壊されます。この聚楽第を中心とする城下町に利休の屋敷もあったのですが、利休は秀吉の命によって自害します。高桐院の開祖である玉甫紹琮は秀吉が利休憎さのあまりこの利休屋敷も取り壊すことを恐れ、高桐院へ屋敷の一部を移築します。その移築された書院が意北軒です。書院と聞くとお城の二の丸や大きなお寺にあるような床の間、違い棚、付書院、帳台構といった豪華な座敷飾りに囲まれた空間を思い浮かべるものの意北軒にそうした飾り気はありません。皮付きの床柱と黒塗りの床框は飾るというよりは床の間を仕切るだけに設えられたような佇まいで、床の間内の壁も周囲と同じく水墨画で描かれた雲や水面のようなグレー調のトーンで統一されています。茶碗にしても着るものにしてもとかく黒に拘った利休らしい書院ですがなかなか実際に「暗い」というのが第一印象です。

 書院を右手に眺めつつ進むと突き当たりに茶室・松向軒があります。この茶室は1587年、秀吉の催した北野大茶会のために建てられた茶室を移築したものという説もありますが高桐院の栞では1628年に忠興が建立したとされています。二畳台目(二畳+4分の3畳)という狭さでありながら天井の形状や材質、窓のバリエーションが豊かでこの組み合わせにいたるまでの亭主の試行錯誤を感じます。台目(だいめ)構えというのは写真で見られるように炉の隅に中柱が立ち、それに袖壁を付けた構成のことでこれも利休の発案です。

 次に客殿へ向かいます。こちらの客殿は明治のいわゆる廃仏毀釈で打ち壊された後、新しく細川家第16代当主の細川護立によって再建されました。客殿の西北部に茶室蓬莱がありますがこちらの方が実際に付け書院を構えていているなど意北軒に比べてより書院の雰囲気を漂わせています。茶道の近代化に貢献した裏千家13代家元円能斎鉄中(1872~1924)好みでゆったりとした空間でありながら欄間や組子の意匠に繊細さが表われています。

意北軒

 先の書院と同じように壁は黒壁です。新しい茶室を建てた時、古く見せようと敢えて火を焚き煤で壁を汚したりもするのですがハナから壁を黒くするところがさすが利休の好みに最も忠実であったとされる忠興ならではの趣向です。ちなみにここも「暗い」です。

松向軒

床柱と床框は北山杉の絞り(しわの入った老木)、天井は長板です。西側に付け書院があり障子越しに庭の緑を感じることができます。


それでは振り返って庭を拝見しましょう。